No.042 明智光秀は殺されていなかった!

戦国武将の織田信長を裏切り、本能寺の変で自害に追い込んだ戦国武将がいます。
それは明智光秀です。

(所蔵:本徳寺)

明智光秀は本能寺の変のあと、わずか13日で小栗栖の長兵衛という普通の農民に殺されました。
なので、彼は「三日天下」などといわれています。

比叡山松禅院にある石灯籠には次のような記述があります。

慶長二十年二月十七日 奉寄進 願主光秀」

これは、慶長二十年に光秀が寄進した石灯籠です。
しかし、慶長二十年というと1615年です。

明智光秀は1582年の本能寺の変の13日後に農民に殺されてるはずです。
では、なぜそれより33年もあとに石灯籠が寄進されてるのか?

明智光秀は生きていた!!!??

このような説を最初に唱えたのは、
明智光秀の子孫の明智滝朗さんです。

では、明智光秀はどうやって生きていたのか?
普通に生きていたら、彼は豊臣家に殺されてしまいます。

そこで、明智光秀は出家してお坊さんになったのです!!

その僧の名は「南光坊天海」。

天海は江戸幕府の知恵袋で、「黒衣の宰相」ともいわれてます。

では、ほかに天海が光秀だという証拠はあるのか?

まずは、天海の過去は闇に閉ざされていることです。
「東叡山開山慈眼大師縁起」によると、
天海の弟子が天海に過去の事を聞くと、
出身地も俗名も生年も忘れて久しい。私は仏門に入った身。
俗人であったころのことを知っても、おまえたちには何の意味もない。

といっていたそうです。
天海は昔は光秀だったので、過去のことは言えなかったのではと推測されます。

人は死んだあとに新しい名前(戒名)がつけられます。
よく、墓碑や位牌などに書いてありますよね。

天海の戒名は「慈眼大師」でした。
そして、光秀が建てた丹波亀山城があった京都府の周山村には「慈眼寺」があります。
天海の戒名と、光秀を祀る寺の名が同じ。

光秀は山崎の戦で秀吉に敗れたので、坂本へ逃げる途中に農民に刺殺されたのですが、
この農民が嘘をついていたとしたら、
光秀は無事、坂本へ逃げれて、天海になった可能性も十分ありえます。

さらに、天海が建設に携わった日光東照宮があります。
ここは栃木の有名な観光地で家康を祀っています。

屋根には縁起のよい鶴と亀の像や、有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の像もあります。

この日光東照宮。表面では徳川家の家紋があらゆるところに書いてあります。
徳川家の家紋は水戸黄門でも有名な三葉葵(葵巴)です。

しかし、軒下から上を見上げてみると、屋根の裏には大量の桔梗紋が書いてあります。
また、陽明門に桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてあります。
実はこの桔梗紋、明智家の家紋です。なぜ、こんなところに明智家の家紋があるのか。

天海は、明智家の家紋を密かに書いて、後世にその権威を残そうとしたのではないかと推測できます。

また、天海は日光に「明智平」という地名を残したりしています。

明智光秀の重臣斎藤利三の娘に春日局という人がいます。
この人は徳川家光の乳母です。
春日局は明智光秀の重臣の娘だったので、光秀には敬意をはらっています。
なので、子供の名を「光秀」の「光」をつけて「家光」にしたのです。
また、家康は自分の子に「光秀」の「秀」をとって「秀忠」という名をつけています。

天海が春日局に初めて会った時、春日局は「お久しゅうございます」と言ったそうです。
ここからも「天海=光秀」が推測されます。

さて、徳川家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、
明智光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、なんと下のようになります!!!

この模様、籠(かご)を編んだときにできる「籠目」というものです。
←籠はこのように編まれています。ほら、「籠目」ができてますよね。

さて、「籠目」といえば、童謡「かごめかごめ」です。

かごめかごめ
カゴの中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
うしろの正面だーれ

実はこれ、次のように解釈できます。

かごめかごめ」は、さっきの地図でできた大きな籠目。

カゴの中の鳥は」の「鳥」は、「土岐(とき)」。
土岐は、明智一族の発祥の地です。

いついつでやる夜明けの晩に」。
「夜明けの晩」は、日の出、つまり「日光」だと思われます。
日光は日光東照宮があるところです。

鶴と亀」は、日光東照宮の屋根にある像です。
これは「日光東照宮」をあらわしています。

すべった」は、「統べた」です。統治するという意味です。

つまり、土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのかという歌です。

では、「うしろの正面」とは誰か?
さっきの地図で、土岐から日光のほうを向いているとすると、後ろの正面は次のようになります。

ちょうど大阪府の岸和田になります。
岸和田というとだんじり祭りが有名な所ですね。

そこには日本で唯一、明智光秀の肖像画がある本徳寺があります。

この寺にある光秀の位牌には「当寺開基慶長四巳亥」と書いてあります。
光秀が慶長四年(1599)に寺を開いたと記されています。
ここからも光秀が生きていたことが推測されます。

明智光秀の肖像画には、「放下般舟三昧去」(光秀は出家して僧になった)と書かれています。
この肖像画は光秀の息子の南国梵桂が絵師に書かせたものらしいです。

やはり明智光秀は、天海だったかもしれません。
歴史は、歴史の勝者が自分の都合のよいように塗り替えたものです。
歴史の教科書に載っている歴史がいつも正しいとは限りません。

歴史の裏には本当の真実が隠されていることもあるのです・・・・・。

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2004/10/3 画像及びその他の記述を変更

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