No.067 安倍清明の隠された過去

延暦13年(794)10月22日。桓武天皇が平安京に遷都しました。
平安京遷都の理由は怨霊にあります。

平安京遷都の10年前、延暦3年(784)6月。桓武天皇は長岡京に遷都を計画していました。
僧侶の政治介入に悩んでいた桓武天皇はいっそのこと平城京から都を変えようとしたのです。
水上交通の便がよい桂川、宇治川、木津川、淀川の交差点につくろうとしていました。
大きさは東西4.3km、南北5.2kmと巨大なものでした。

延暦4年(785)9月15日夜、突然月光が消え失せました。
人々は何か不吉なことの前触れだと思いました。(実は月食だと思われる)

月食から8日後、9月23日夜、長岡京嶋町で事件は起きてしまいました。
長岡京留守司の藤原種継が長岡京造営工事をみているとき、
何者かが種継を暗殺しようと矢を放ちました。翌24日に自邸で死去しました。

種継暗殺犯として、罪を着せられたのは種継と対立していた桓武天皇の弟・早良親王でした。
桓武天皇は安殿親王を次の天皇にしたかったので、早良親王に無実の罪をかぶせたのです。
9月28日、彼は乙訓寺(現:長岡市今里)に幽閉され、無実を訴えるために断食をしました。
その10日余り後、船で淡路に移送中、高瀬橋(淀川にかかる橋)のあたりで餓死しました。

それからというもの、長岡京には無実の罪で死んだ種継の怨霊が憑きまといました。

延暦7年(788)5月4日、桓武天皇の妻・藤原旅子が30歳の若さで死去。
延暦8年(789)12月28日、桓武天皇の母・高野新笠が死去。
延暦9年(790)閏3月10日、桓武天皇の妻・藤原乙牟漏が31歳の若さで死去。

延暦7年(788)〜延暦9年(790)は旱魃により凶作。
延暦9年(790)秋、都で疫病が流行し、多くの人々が死亡。
そのとき、安殿親王も病にかかりました。

延暦11年(792)6月10日、桓武天皇は、陰陽師に安殿親王の病状を占わせた。
すると、早良親王の祟りが原因だと判明した。

驚いた桓武天皇は早良新王が埋葬されている淡路島へ使者を送り、墓を整備させた。
そして、僧に墓の前で読経をさせた。

しかし、延暦11年(792)夏〜秋に豪雨が続き、桂川が氾濫。
長岡京に多大な被害が出た。

相次ぐ凶事に恐れをなした桓武天皇は、長岡京を未完成のまま捨て、
平安京をつくることを決めた。延暦12年(793)3月のことだった。

延暦13年(794)10月22日、桓武天皇は平安京に遷都した。
桓武天皇は怨霊を恐れ、陰陽道に基づいて平安京をつくりました。

北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)があるのが
最良の土地という考えを「四神相応」と言います。

平安京はこの考えに基づいてつくられています。

北に山(玄武) ⇒船岡山

東に川(青龍) ⇒鴨川

南に池(朱雀) ⇒巨椋池 ※現在は埋め立てられ、主に水田となっている。

西に道(白虎) ⇒山陰道

また、鬼門の方角には比叡山延暦寺があります。

それから200年のときを経て、平安時代中期のころの話に変わります。

時の帝・第65代花山天皇が、最も信頼していた一人の男がいました。
そう、彼は陰陽師・安倍清明

安倍清明の生年には諸説あるが、
「安倍氏系図」によると、延喜21年(921)〜寛弘2年(1005)で、84年間の生涯を全うしています。

清明の出生地は、和泉国・阿倍野だと言われています。
父・安倍保名は、ある日、山で狩猟に追われている白狐を助けました。
山を出ると、そこにいたのは絶世の美女。名は葛の葉
実は、この女は、山で助けた白狐でした。
二人は結婚して、童子丸という子を産みました。
数年、家族は仲睦まじく暮らしていましたが、
ある秋、菊のにおいに酔いしれ、母・葛の葉は白狐としての本性をあらわしてしまいました。
葛の葉は、障子に歌を残して、家を去っていきました。

「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

ところで、陰陽師とは何かについて触れよう。
平安時代の国家は律令制だった。当時の国家は以下のようになっていました。

中務省(なかつかさしょう)に陰陽寮があるんです。
陰陽師とは陰陽道と呼ばれる呪術・占術の使い手ですが、
陰陽寮の全てが陰陽師ではありません。

陰陽寮は次のような構成になっています。

役職 官位 人数
従五位下 1
従六位上 1
権助 従六位上 1
陰陽博士 正七位下 1
天文博士 正七位下 1
陰陽師 従七位上 6
暦博士 従七位上 1
大允 従七位上 1
少允 従七位上 1
漏刻博士 従七位下 2
大属 従八位下 1
少属 大初位上 1
陰陽生   10
暦生   10
天文生   10
守辰丁   20
使部   20
直丁   3

歴史書「大鏡」に次のようなことが書かれています。

花山天皇が退位をしようか迷っていたとき、
安倍清明は占いにより、退位を勧めました。
そして、寛和2年(986)6月23日、花山天皇は退位しました。
天皇が退位し、法皇となったあとも安倍清明と花山天皇はやりとりを続けていました。
そんなある日、安倍清明は法皇に「一緒に東国へ行かないか?」と言いました。

陰陽師は天皇で使える職であり、法皇にはもう用がないのに、なぜやりとりを続けていたのだろうか。
なぜ、東国へ行きたがっているのだろうか。

その謎を解くカギは「信太の森の白狐伝説」にあります。
先ほど書いた、清明の母が白狐だという話です。

当時の東国は、平将門の乱が起きたあとでした。
その乱は、平将門が、新皇を名乗り、東国に独立国を作ろうとしたものです。
しかし、将門は天慶3年(940)2月14日に平貞盛と藤原秀郷により殺され、京の都で「さらし首」となりました。

そして、平将門が治めようとしていた東国の常陸国には信太という地名があります。
そう、信太の森の白狐の「信太」です。
しかも、阿倍野だけでなく、ここにも「清明神社」があります。

平将門の息子のうち、殺されずに生き残ったのが一人います。
彼の名は将国。ここ信太郡に隠れ、信太姓を名乗ったとの記録が残っています。

これらから異説が唱えられます。
安倍清明は大阪(和泉)・阿倍野ではなく、茨城(常陸)・信太の出身で、
実は平将門の生き残りの息子である。

彼は信頼できる花山天皇とともに、
父親の意を継いで東国に独立国を作ろうとしたのです。

結局、東国へ赴くこと叶いませんでしたが。

 

京の都で「さらし首」になった平将門は、目を閉じることがなく、
それどころか、わめき出したという。
3日後には、怪しい光を放ちながら首は東国へ飛んでいったという。

目を閉じることがなく、わめき出したという記述は「平家物語」や「太平記」に見られる。

(平家物語より)
 むかし、将門が頚、獄門にかけらてたりけるを、藤六といふ歌詠が見て、
 将門は 米かみよりぞ きられける 俵藤太が はかりごとにて
 と、よみたりければ、此首、しいとぞわらひける。
 二月に討たれたる頸を、四月に持て上りて懸たりけるが、
 五月三日にわらひたりけるぞ恐ろしき。

(太平記より)
 その首獄門に懸けて曝すに、三月まで色変ぜず、眼をも塞がず、
 常に牙をかみて、「斬られしわが五体、いづれの所にか有るらん。
 ここに来たれ。首ついで今一軍せん」と夜な夜な呼ばはりけるあひだ、
 聞く人これを恐れずといふ事なし。時に道過ぐる人これを聞きて、
 将門は 米かみよりぞ きられける 俵藤太が はかりごとにて
 と読みたりければ、この首からからと笑ひけるが、
 眼たちまちに塞がつて、その尸つひに枯れにけり。

そして、飛んでいった首が落ちたところが、東京都千代田区大手町1丁目1番地1号にある将門首塚です。
大都会・東京のビル群の中に、密かにある首塚です。
今も東京に将門は眠っています。

なぜ首が飛んでいったのだろうか。

それは、父の首を見ていた息子・平将国(安倍清明)が、
陰陽師の法力を使って飛ばしたのではないだろうか。

首塚に関する恐ろしいエピソードが残っています。

1923年、関東大震災により大蔵省庁舎が全焼しました。
そこで首塚を壊して、仮庁舎を建てたのです。

1926年、大蔵大臣・早速整爾が病にかかり死亡。
相次いで、矢橋官材局課長など十数名が死亡。
さらに、政務次官・武内作平など多数が仮庁舎で転倒して怪我。

これは将門の崇りだと言われています。
1928年に仮庁舎は壊され、慰霊祭が行なわれました。

1940年、将門の死から1000年が経った時です。
また、大蔵省に崇りがおきました。落雷です。
それにより、大蔵相は炎上。
また慰霊祭を行ないました。

1945年、日本敗戦。GHQが首塚を壊して駐車場を作ろうとしました。
しかし、日本人が運転していたブルドーザーが転倒。運転手が死亡。
これも将門の崇りだといわれています。

以後、首塚が壊されるようなことはありませんでした。

 

安倍清明は北斗信仰をしていました。
彼は北極星の神格化である妙見菩薩を崇めていました。

実は、この妙見菩薩は平将門とも密接な関係があります。

935年、平良兼との合戦のとき、平将門の矢が尽きてしまいました。
そのとき、童子姿の妙見菩薩が出現し、矢を与え、勝利に導いたといいます。

この史実は「源平闘諍録」に記されています。

平将門は妙見菩薩を守護神として崇めていました。
妙見菩薩像の背には、北斗七星を意味する七つの星がついています。
これが菩薩を守っています。

ここで、北斗七星について触れたいと思います。

北斗七星は、おおぐま座の腰から尾にかけての部分です。
それぞれの星に固有名がついています。

α星・・・ドュベ(Dubhe)
β星・・・メラク(Merak)
γ星・・・フェクダ(Phecda)
δ星・・・メグレス(Megrez)
ε星・・・アリオト(Alioth)
ζ星・・・ミザール(Mizar)
η星・・・アルカイド(Alkaid)

また、日本では次のように呼ばれていました。

α星・・・貪狼星(とんろうしょう)
β星・・・巨門星(こもんしょう)
γ星・・・禄存星(ろくぞんしょう)
δ星・・・文曲星(もんこくしょう)
ε星・・・廉貞星(れんじょうしょう)
ζ星・・・武曲星(むこくしょう)
η星・・・破軍星(はぐんしょう)

破軍星の方向へ戦に向うと負け、破軍星を背にして戦えば勝つといわれていました。

ちなみに、α星とβ星を結んだ線を5倍に延長したところに北極星があります。
そこから、α星とβ星は「指極星」と呼ばれています。

 

さて、東京にある主な平将門に関係するところを下に記してみました。

・鎧神社・・・将門の鎧が納められた場所。
・鬼王神社・・・将門の霊を祀っている。社名は将門の幼名・外都鬼王に由来する。
・築土八幡・・・将門の霊を祀っている。
・神田明神・・・将門の霊を祀っている。慰霊祭はここの社司によって行なわれた。
・将門首塚・・・京で「さらし首」にした将門の首が飛んでいった場所。
・兜神社・・・藤原秀郷が将門の首をここまで持ってきたとき、兜をここで埋めて塚を築いた。
・水稲荷神社・・・将門の首を取った藤原秀郷が勧請した神社。

これらの場所に注目していただきたい。

よ〜く見てください。

何か気づきましたか?

線で結んでみましょう。

こ、これは!! 北斗七星ではないですか!

新宿区、千代田区、中央区、台東区をまたがる巨大な北斗七星です!!
大都会・東京に隠された北斗七星。

将門の北斗信仰は、今も東京に大きく刻まれているんです。

 

 

以下のサイトの写真素材を、「平安京」に関する記述で利用させてもらいましたm(__)m
http://www.yunphoto.net
http://wsn.31rsm.ne.jp/~dora/
http://www.tanoshimimura.com/index.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~jb3k-tnk/index.html

※一部の写真はイメージ写真であり、実際の場所とは異なる場合があります。
  巨椋池干拓田の写真 ⇒実は北海道・大野町の水田
  山陰道の写真      ⇒実は滋賀・近江八幡の朝鮮人街道

※「安倍清明」でも「安倍晴明」でも正しいですので、それに関する苦情のメールは送らないで下さい。

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