No.080 飛鳥時代、聖徳太子の手紙が隋の帝に読めたのは何故?

まな坊(●´∀`●)さんの疑問
 飛鳥時代のよぅな昔に通訳使なんて居たんでしょうか?
 何故読めたかがわかりません。
 教科書や資料集には解りやすいように日本語で書いてありますが、実際は何語で書かれていたんでしょうか??
 ちなみに隋書には「聖徳太子」の事を多利思比弧(たりしひこ)と書かれていたようで す。

フレッシュワーズの回答
 聖徳太子ですが、「聖徳太子」というのは、あとから彼の偉業を称えて付けた名で、本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」です。
 上宮聖徳法王定説(最古の聖徳太子伝)では、「厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやどのとよとみのしょうとくほうおう)」と記されてます。

 彼は、用明天皇(橘豊日(たちばなのとよひ))と穴穂部間人(あなほべのまひと)の間に生まれた子です。

                    目子之郎女男大迹(26.継体天皇)──┬毛白髪之郎女
                ┌───┴───┐ 天国排開広庭(29.欽明天皇)───────┬小兄媛
橘中媛命武小広国押盾(28.宣化天皇) 勾大兄(27.安閑天皇) │└────┬堅塩媛 ┌┴──┐
      石媛之命───┬──────────────┘ ┌┴──┐   間人穴太部王 泊瀬部(32.崇峻天皇)
訳語田渟中倉太珠敷(30.敏達天皇)───豊御食炊屋姫(33.推古天皇) 橘豊日(31.用明天皇)┬┘
                                                         聖徳太子

 聖徳太子はこんなに複雑な家庭に生まれました。
 ていうか、欽明天皇は結婚しすぎです(笑) …3人と結婚してます。

 天皇の後継ぎに困ってはいけないので、必死に結婚して子どもを作ろうと思ってたんですね。

 585年に敏達天皇が他界。587年に用名天皇が他界。
 そして、崇峻天皇が横暴な蘇我馬子を殺そうと思ったら、逆に殺されました。 それが592年です。

 崇峻天皇が死ぬと、天皇後継ぎとなる男がいませんでした。
 しかたなく、593年に女帝として推古天皇が即位しました。

 推古天皇は女性なので、摂政(天皇に代わって政務を行なう役職)に聖徳太子がなりました。
 実は、推古天皇は聖徳太子の伯母です。

 聖徳太子は、摂政となりさまざまな偉業をしました。

 603年には蘇我馬子とともに冠の色で位階をあらわす冠位十二階を制定。
 604年には十七条憲法を制定しました。

 他にも、仏教を深く信仰し、斑鳩寺(今の法隆寺)を建立したりしました。

 そんななかで、彼は607年、608年、614年に遣隋使を派遣しました。(中国の書には600年にも派遣されたと書かれている。)

 遣隋使は、日本から隋に使節を送り、外交を結ぶのが目的です。

 そして、その第一号の遣隋使の代表が小野妹子(隋名:蘇因高)です。
 ちなみにこの方は男の人です。

 さて、第一号遣隋使(607年)ですが、このことが隋書倭国伝に書かれています。

 新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。
 大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。
 使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、
 兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
 その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(ツツガ)なきや、云云」と。
 帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。

 新羅とか、百済とか、珍しいものが多いので、いつも使いの人たちがきます。
 大業3年に、日本の王の
多利思比孤(聖徳太子)が使いを送ってきました。
 使いの人は「私たち数十人の僧侶は仏法を学びにきました」と言いました。
 聖徳太子が書いた手紙には「日が出るところの天皇から、日が沈むところの帝に送ります、お元気でしょうか」と書いてありました。
 帝はこの手紙を見て怒りました。そして鴻臚卿にいいました。「こんな野蛮で無礼なものとは外交しないぞ!」

 さて、なぜ隋の皇帝(煬帝)は怒ったかわかりますか?
 自分の国(隋)が「日が沈むところ」と書かれていたからです。

 小野妹子は必死に言いわけしました。

 「『日が沈む』というのは、わが国より西にあるからです。わが国はあなたの国のことを尊敬してます。」

 この言葉で、煬帝は怒りをおさめました。
 そして、見事に外交が結ばれたのです。

 そして、無事、妹子は日本に帰り、外交が結ばれたことを聖徳太子に言いました。
 煬帝が書いた手紙は、聖徳太子が怒りそうな内容だったので妹子の適切な判断で海に捨てたらしいです。

 では、ここからが本題です。
 聖徳太子から、煬帝に送られた国書。
 お互いの言語は違うはずなのにどうして通じたのか?

 それは....通訳がいたからです!!

 見知らぬ土地に住み着いて、しばらくしたらそこの言語を自然に覚えてしまうものです。
 そんなことは飛鳥時代でもありました。

 通訳の職についたほとんどが、渡来人です。
 渡来人は4〜7世紀に朝鮮や中国から日本に渡来してきた人たちです。

 遣隋使の時にも、通訳は遣隋使船に同乗していました。
 そのおかげで、聖徳太子は国書を中国語で書くことができたのです。

 というわけで実際は中国語で書いてあったのです。

 ちなみに、隋書には「開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比弧」という文があります。
 「600年、日本に王様がいました。姓は阿毎、名は多利思比弧」という意味です。

 「阿毎多利思比弧(あめのたりしひこ)」は聖徳太子のことをさしています。 

since 2003/12/30
2004/8/30 minさんの指摘により訂正 阿多利思比弧

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